流鏑馬について

流鏑馬(やぶさめ)とは

流鏑馬の語源は「矢馳馬(やはせめ)」ともいわれ馬を馳せながら矢を飛ばすことで、今日使われている流鏑馬の文字は、馬上より鏑矢を用いる意味を文字化したものと言われています。日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式で、現在では神社の神事として日本各地で盛んに行われています。

馬を走らせて的を射る「騎射(うまゆみ)」と呼ばれるものは、京都に都が定まる平安時代以前からあり、御所では清和天皇(在位858~876)が自ら弓を引かれたり、馬に乗られたりということもあったそうで、次第に公家や武家が務めるようになりました。
 文献上で最も古い「流鏑馬」の記録は『新猿楽記』とされ、朝廷の警護にあたった滝口、随身により、朝廷の儀式として平安時代盛んに行われていたことが記されています。

武家の流鏑馬は『平治物語』に見える、平清盛の伏見稲荷神社奉納の流鏑馬が初めとされており、源氏の道統としての流鏑馬は、清和源氏の始祖である六孫王経基が清和天皇の教えを受け、伝承され、宮中大儀の儀式には必ず行われていました。
 時は進み、鎌倉に幕府が開かれてからは神事と結び、重要な儀式として鶴岡八幡宮を中心に盛んに実演されたことが『吾妻鏡』に多くみられます。しかし鎌倉幕府の衰退により徐々にすたれ南北朝の頃には行われなくなりますが、徳川時代に入り八代将軍徳川吉宗の命により小笠原平兵衛常春(第二十世)が高田馬場で復興し、徳川家の大事にたびたび行われるようになります。
 明治維新を経て幕府解体、また第二次世界大戦と以後の煽りを受けるなど三度の衰退をみせるが戦後に復興し現在に至ります。

美多彌神社 流鏑馬

美多彌神社は、今から1000年以上も昔の平安時代前期に編纂された「延喜式(えんぎしき)神名帳」にその名を連ねる古社である。今も、美木多地区の産土神(うぶすながみ)として、美木多の谷(和田谷(みきただに))を見渡す丘陵上に鎮座する。同じ頃成立の「和名抄(わみようしよう)」にある大鳥郡10郷の一つ、和田郷(にきたのさと)に鎮座するところから、古代氏族和太連(にきたのむらじ)、あるいは民直(たみのあたい)の創建と伝えられ、天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祭神としている。

和太連、民直は、いずれも近隣の蜂田連(はちたのむらじ)、殿来連(とのきのむらじ)、大鳥連らとともに、天児屋根命の後裔を称する大中臣(おおなかとみ)氏のグループに属する。また和田郷は、早くから『みきた郷』と呼ばれていたようで、鎌倉時代初期の古文書に「みきた」と仮名書きされたものがあるなど、以来、和名抄の読み「にきた」ではなく、仮名書きでは全て「みきた」と記される。
中世の和田(みきた)氏は、平安時代の末期になって河内国矢田部(現東住吉区)から移り来た大中臣助正(おおなかとみのすけまさ)がこの地の田畑の開発を進め、その子助綱(すけつな)の代になって河内国天野山金剛寺に寄進し、開発地「和田荘(みきたのしょう)」の荘官の身分を得て、子々孫々までの相伝を図る。この大中臣和田氏については「和田文書(個人蔵、堺市博物館寄託)」「金剛寺文書」などに史料がよく残されている。これらの史料によって、和田氏が金剛寺のほか、奈良興福寺・春日大社を通じて摂関家(せつかんけ)ともつながりを持ち、それらの庇護を受けつつ、自らの開発地の保全に努める姿がよく分かる。また、それと同時に鎌倉幕府の御家人となって、一所懸命の地、和田谷を守る土豪武士として成長していく足取りもよくうかがえる。特に和田文書の中には、南北朝・室町期の、武士として各地に参戦した記録も多く残されている。

 この「和田文書」の中の鎌倉期永仁2年「沙弥性蓮(しゃみしょうれん)処分状」に、『武射免弐段』の文字がある。助綱の曽孫、清遠(きよとお)が「性蓮」の出家名で作成した「譲り状」(今で言う財産分与状)の中の『武射訓練費にあてるための免田(めんでん)、弐段(2反歩(たんぶ)…当時の1反は360歩)』の記載である。和田氏は、各種の免田(武射免のほか殿下雑免・春日雑免・貞清雑免など、年貢・公事などの貢租が免除される田地)を獲得しながら土豪武士としての力を蓄えていくのであるが、その免田がすべて「嫡子得分」とあるのだ。これらは「下司(荘園の役人)の馬上免給」などとともに『わずかの反歩だとしても分割するなどあってはならない。すべて嫡子の進退(身代)とすべきものである』として、和田氏惣領となる嫡子にのみ引き継がれていく様子がよく分かるのである。
こうして和田氏もまた嫡子惣領を中心に、庶子(しよし)・一族、領民を組織して和田谷における武士団を形成し、流鏑馬や武射などを通して弓馬の訓練をし、軍事力の向上を図っていたのである。またこれは単なる軍事訓練ではなく、祭事として行うことにより一族と和田谷の領民の結束を図るという色合いも併せ持っていたことは容易に理解できよう。

戦乱で荒れてしまった美多彌神社も、文禄元年、和田道讃(道山)入道らによって「牛頭天王宮(ごずてんのうのみや)」として再興されて以来、近世的な宮座(みやざ)仲間に引き継がれる。そして、すでに軍事色が消え、邪気を払い五穀豊穣・息災を祈る祭事の一つとして続けられたのであるが、これもまた、明治以来の近代化の中で急速に失われてしまっている。
この地域に暮らす住民の郷土愛と連帯感を高め、次世代を担うこどもたちにとっても心の糧となるような、地域環境の整備「ふるさとづくり」が進むことを願って、平成26年3月29日に流鏑馬行事を復活させ、以来子ども流鏑馬礼法講習会を開きつつ、4年ごとの流鏑馬祭り開催を目指し今に至っている。

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